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外交研究会 要旨 (2010年)

戦前期の外務省革新派をめぐって  

2010.9.22
戸 部 良 一

1.外務省革新派の形成

 外務省革新派の形成を促した直接的な要因は満州事変の衝撃である。当時、外務省情報部長で後に外務省革新派のリーダーとなる白鳥敏夫は、それまでの幣原外交と決別し、日本外交を根底から転換することを主張した。白鳥は従来の外交との断絶、新たな国際秩序観念の構築を模索した。

 外交転換の主張の前提には、世界が歴史的な大変動の真只中にあるという現状認識があった。外務省革新派は、この大変動が人間の意識や価値観から政治、経済、社会の構造全体にまで及ぶものと理解し、この構造全体を把握する「世界観」を重視した。彼らは、こうした構造的変化に対しては、部分的あるいは技術的、法理的に対応するだけでは不充分であり、根底にある「世界観」から抜本的に見直し、そこから外交を立て直さなければならない、と主張したのである。こうして外務省革新派は、外交そのものの根本的転換を唱え、それを実現するために人事の刷新と、外務省機構の改革を主張してゆく。

2.人事刷新

 革新派がグループとしての形をとり始めるのは、白鳥騒動と呼ばれる外務省内の人事抗争がきっかけである。満洲事変後、省内で実力を発揮した谷正之アジア局長と、白鳥敏夫情報部長との間に対立が生じ、当時の内田康哉外相は次官の有田八郎に問題の処理を委ねたが、有田も白鳥と対立するようになる。この騒動の過程で、白鳥を中心とし、栗原正、松宮順を幹部とするグループが形成される。

 この騒動には、いくつかの要因が関わっている。1つは、満洲事変以降、陸軍に対して外務省の発言力が低下したので、これにどのように対応すべきか、という問題をめぐっての意見対立があった。2つ目の要因は、満洲問題を独占的に扱ってきたアジア局への反撥であった。もう1つの要因として人事の停滞が挙げられる。1910年代後半から20年代前半にかけて外交官試験の合格者が大幅に増え、それが30年代に入って人事の閉塞状況を生んでいた。

 人事刷新を含む外務省改革を求める動きは、1933年1月、僚友会の結成につながる。僚友会の会員は70人を超えたという。ただし、革新派の独特のイデオロギー、つまり「皇道外交」には共感しなくても、人事刷新と機構改革には賛成する、といった少壮外務官僚が僚友会には多かったことにも注意すべきだろう。

 人事刷新に関しては、白鳥を次官にしようという運動が繰り返されたことが注目される。1936年の二・二六事件の直後、広田内閣が固まるまでと、翌37年、広田内閣が倒れて林内閣が成立したとき、外務省の若手の間で盛んに白鳥擁立運動が展開された。1938年、近衛内閣で、広田に代わって宇垣一成が外相になると、外部から迎えられた大臣の下で次官の重要性が指摘されるようになり、このときも白鳥が次官候補とされた。その後、宇垣が突如辞任したため、今度は外相に白鳥を、という声が高まった。しかし結局、白鳥は次官にも大臣にもなれず、イタリア大使として日本を離れることになる。要するに、革新派はその存在がよく注目されたが、実際には、そのリーダーが大臣にも次官にもなれなかったのである。

3.機構改革

  革新派による外務省機構改革の主張の例としては、考査部設置問題が挙げられる。白鳥は、陸軍が参謀本部という機関を有して、長期的計画を立て、それに基づいて行動しているのに対して、外務省ではアジア局が日々の事務処理に追われるばかりで、長期的計画もなければ国際政治全体を見渡す大局観もない、と批判し、外務省にも参謀本部的な機関をつくるべきだ、と主張した。しかし、こうした構想に対しては、政策の策定と実施を切り離すものだとして批判が強く、結局全くの調査機関たる調査部に矮小化されてしまった。

  その後、僚友会の要求を受けて、外務省には機構改正委員会が設けられる。機構改正委員会の改革案で注目されるのは、政務中心主義といわれる構想である。これは地域局の政務と庶務とを切り離し、各地域局の政務を集中統合して政務局をつくり、そこで長期的かつ大局的に政策を立案し実施する、というものであった。考査部では長期的な政策立案と実施とを切り離したことを批判されたので、今度は両者をセットにしたところがミソであった。しかし、結局のところ、これも実現を見なかった。

4.政策への影響力

4.政策への影響力   革新派はどの程度政策に影響を与えたのか。まず取り上げるべきは防共協定強化問題である。このとき、白鳥イタリア大使は、大島ドイツ大使と共に、完全にドイツ側の同盟構想に同調し、本国政府に同盟締結の圧力をかけた。訓令を執行せず、ときには訓令を逸脱して独断で発言した。本国でも、革新派の外務官僚たちが同盟締結論を公言し、陸軍と連携していた。当時外務省では、局部長以上から成る幹部会で重要問題を協議していたが、局部長の半分が革新派であったので、議論を避けることが多かったという。だが結局のところ、革新派の圧力にもかかわらず、この時点で日独伊同盟は実現されなかった。

  1939年7月、アメリカから日米通商条約の廃棄通告を受けて、その対策を協議するため、外務省は対米政策審議委員会というアド・ホックな委員会を設置した。また、同年9月ヨーロッパで大戦が勃発したことに伴い、欧洲戦対策審議委員会を設けた。この2つの委員会では、革新派と目された者が要の位置を占めた。そこでは、対米政策、対独伊提携策、対ソ政策、南進政策などが活発に議論され、並行して陸軍や海軍との協議も進められた。革新派の主張は、しばしば陸軍よりも強硬で過激であった。したがって、こうした経緯から、革新派の政治的影響力の大きさが指摘されることが多い。しかしながら、これらの審議の結果として12月末に政府が決定した「対外施策方針要綱」には、革新派の主張はあまり反映されてはいない。決定に至る審議の過程では、彼らは強硬論を吐いた。しかし、決定には彼らの主張は生かされなかった。したがって、ここでも、革新派の影響力は決定的なものではなかった、と考えるべきだろう。

 日独伊三国同盟も、革新派の年来の主張でありながら、実はそれまで革新派と関係がなかった松岡洋右外相によって実現されたことを重視すべきである。松岡は同盟締結交渉で徹底した秘密主義を貫き、彼と少数の側近だけで交渉を進めた。白鳥を外務省顧問に祭り上げ、実質的にはそこに封じ込めて反対できないようにした。松岡人事旋風といわれた大幅な人事異動を実施し、老朽外交官を淘汰したが、その真の狙いは革新派を中枢部から遠ざけることにあったといわれる。革新派が主張してきた三国同盟が実現したため、外務省内は革新派が握っているように見えた。だが、松岡は革新派を嫌い、彼らを政策決定の中枢から遠ざけていた。三国同盟は革新派の手によって実現したわけではない。

  日米戦争の回避を目指した「日米交渉」を主管したアメリカ局長の寺崎太郎によれば、外務省内には革新派ばかりでなく、立場を鮮明にしない「灰色組」が多数いたため、その妨害を警戒して、交渉はごく少数で秘密裏に進めざるを得ず、きわめてやりにくかったとされている。たしかにそうであったに違いない。しかし、松岡外相時代に日米交渉が進まなかったのは、外相自身が交渉に消極的だったからであり、革新派の妨害のせいではない。また、豊田外相時代に交渉が進まなかったのは、日本が南部仏印進駐を実行し、それによってアメリカの態度が硬化したからであった。これも原因が革新派の妨害にあるわけではない。革新派の妨害によって交渉はやりにくかったが、彼らが日本の外交を左右したわけではないといえよう。

 なお、開戦手続きに関して、その審議と方針原案の作成に携わっていた外務官僚の多くが革新派であり、彼らが陸軍と密着して、宣戦布告を必要なしとする開戦手続きの決定に大きな影響を与えた、という解釈もあるが、たとえ革新派が陸軍と結託して原案を作成したとしても、それが東郷外相の判断を左右したとは言えない。東郷外相が宣戦布告を不要とする開戦手続きを採用したのは、陸海軍の軍事的理由に基く要求を呑んだからであって、革新派の圧力を受けたからではなかったと考えられる。

5.言論活動

  政策決定に視点を置く限り、外務省革新派の影響力は限定的であった。彼らがその力によって何らかの具体的政策を決定した例はほとんどない。革新派の影響力は、具体的な政策を決定するというポジティヴな方向には発揮されなかった。むしろ彼らの影響力はネガティヴな方向に作用した。すなわち、防共協定強化問題や戦争回避のための日米交渉の時に示されたように、政府ないし外務省の決定や行動を妨害する方向に作用したのである。むろん、彼らの影響力がネガティヴな方向に働いたからといって、それを軽視することはできない。革新派の圧力あるいは行動によって、日本外交が立ち往生したり、外務省首脳部の方針がスムースに実行されなかったりするケースがしばしばあった。それが、長期的には、日本外交の選択の幅を狭めたとは言えるだろう。

 では、なぜ彼らはそうした影響力を持ち得たのだろうか。その理由の1つとして、陸軍との協力あるいは密着という要因を挙げることができる。しかし、陸軍との協力という理由だけで、革新派の影響力を説明することはできない。革新派の影響力については、政策決定の場だけでなく、白鳥の場合に象徴されるように、言論の場での彼らの言説に注目しなければならない。

 このような言説の中で、かつて白鳥は次のように論じた。満洲事変の意義や正当性は、既存の国際法や国際秩序観では説明できない。既存の国際法や国際秩序観に立つならば、満洲事変も支那事変も日本が悪かったとして世界の前に頭を下げなければならない、と。こうして彼は既存の国際秩序観念を否定し、新しい世界秩序を模索したのだが、このような説明や論理は、日本の対外行動を既存の国際法や国際秩序の枠組で何とか辻褄合わせすることよりも、ずっと明快かつ単純で、一般には説得力があったのではないだろうか。

 当時は、いわゆる国民外交の時代、あるいは外交の大衆化の時代であった。かつて外交はエリートの関心事であったが、革新派が登場してきた時代は、外交がエリートの独占物ではなくなった。そして、このような時代には、革新派が提示した単純明快な説明のほうが、エリート好みの難解な解説よりも説得力を持ち得たのではないだろうか。こうした意味で、外務省革新派は外交の大衆化・民主化の申し子であったとも言えよう。彼らが、外務省首脳部を批判したことには、外交の大衆化・民主化に効果的に対応できない外務省の体質に対する批判も含まれていたと考えられる。

 満洲事変以後、対外的な危機が続くなかで、日本の言語空間は明らかに変調をきたした。この変調した言語空間に合致する外交論を提供したのが、外務省革新派であった。あるいは、こうした歪んだ言語空間の中から表出された外交論を、革新派は専門家としての立場から助長した、と言えるかもしれない。外務省革新派は、国内世論の動向に過敏なほどに反応したのである。