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外交研究会 要旨 (2011年)

イスラエルから見たエジプト政変とその影響 

  2011.3.9
  茂 田 宏

1.  イスラエルの中では、エジプトの政変を含むアラブ世界での最近の出来事について百 家争鳴と言ってよいほど、多くの異なった意見、議論がある。そういう前提で話を聞いてほしい。

2. 資料に中東地域諸国の人口、王制か共和制か、GDPの規模、一人当たり所得を書いてある。各国の人口、経済力が分かる。エジプトはアラブ世界において大きな地位を占めている。加えて、エジプトはアラブ地域でソフト・パワー的影響力も持っている。

 中東には3つの類型の国がある。反米共和制の国、シリヤやイラン、親米共和制の国、チュニジアやエジプトなど、親米王制の国、サウジ、バーレーンなどです。

 今回の騒動は反米共和制の国にはあまり広がっていない。親米共和制の国に広がっている。親米王制では、ヨルダン、バーレーンとオマーンに広がっているが、王制の国では立憲君主制の要求はあるが、王制廃止要求はほぼない。バーレーンでは、王制廃止の声がある。バーレーンの行方が重要で、王制の国に騒動が広がるかどうかの試金石になる。バーレーンは米第5艦隊の基地でもある。

 王制と共和制の違いは何か。これは、権力継承の問題が王制にはない。要するに王様の息子か兄弟かに行くことが決まっている。共和政はムバラクが息子のガマルに継承させたいと言っても、なかなかそうはいかない。そういう意味で権力継承が問題になる。

 人口について、日本の人口の平均年齢は大体45歳であるが、エジプト、リビヤ、サウジなどアラブ諸国の人口の平均年齢は20~25歳で、大変若者が多い。これが今度の騒動の背景にある。

3. 次にイスラエルの略史ですが、ユダヤ人が自らの国を持ちたいという運動を始めたのが1897年です。フランスでのユダヤ人のドレフュス大尉の冤罪事件に反発して、ユダヤ人のジャーナリスト、ヘルツェルが、ユダヤ国家というパンフレットを書いた。これがシオニズム運動の始まりになった。

 第1次大戦中、1917年11月、イギリス外相バルフォアがユダヤ人指導者ロスチャイルドに、パレスチナでのユダヤ人の「民族郷土」建設を認めると言う書簡を出した。バルフォア宣言である。なお日本も当時の珍田大使から、この宣言支持をユダヤ人側に表明している。

 第2次大戦中に、ヒトラーがユダヤ人問題の最終解決を標榜し、ホロコーストが起こった。アウシュビッツやマイダネックにはその跡が残されている。この事件はユダヤ人にぬぐいがたい傷を与え、ユダヤ人の世界観に今なお影響を与え続けている。ユダヤ人を理解するためには、それがどんな傷かを理解する必要がある。

 パレスチナでは元々居たパレスチナ人と移住してきたユダヤ人の間で紛争が起こっていたが、1947年11月29日、国連総会は決議181、いわゆるパレスチナ分割決議を採択した。パレスチナの英軍はこれを受け1948年5月14日に撤退し、同日イスラエルは独立を宣言した。パレスチナはナクバ、破局の日としている。

 この日、イラク、エジプトなどはイスラエルに宣戦した。第1次中東戦争である。兵力に劣るイスラエルは善戦し、独立を守った。

 1952年、エジプトで自由将校団による革命が起こった。ナセルは1956年にスエズ運河国有化を宣言し、それを契機に、第2次中東戦争が起こった。

 1967年6月、第3次中東戦争が勃発した。これは6日間戦争と言われている。ナセルがイスラエルせん滅を呼号する中で、6月5日、イスラエルがエジプト、シリヤなどの空軍基地を奇襲して始まった。この戦争の結果、イスラエルはガザとヨルダン川西岸を占領するとともに、エジプトのシナイ半島、シリヤのゴラン高原を占領した。現在の中東和平交渉のベースとなる地政的状況はこの戦争で生まれた。

 1970年にナセルが心臓病で死亡、アンワル・サダトが後を継いだ。サダトは当初ナセルに比較し、愚鈍であるとされたが、これはとんでもない間違いで、今から思うと、政治家、戦略家として極めて優れた人であった。

 1973年10月6日、ヨム・キプールの日にエジプトとシリヤはイスラエルに対して奇襲攻撃を敢行した。奇襲は成功したが、イスラエル軍は反攻に成功した。10月22日、停戦になった。6日戦争で慢心していたイスラエルの受けた衝撃は大きかった。

 1974年に兵力分離協定がエジプト・シリヤとイスラエルの間で出来た。日本の自衛隊はゴラン高原の兵力分離協定を監視するPKOに1996年から参加している。

この戦争後、1977年、サダトはエルサレムを訪問、ベギン首相と会談、その後1978年、カーター大統領を交えたサダトとベギンの会談でキャンプ・デビッド合意が出来、1979年、エジプト・イスラエル平和条約が締結された。

 サダトはヨム・キプール戦争でエジプト人に誇りを取り戻させ、その上でイスラエルと和平する、イスラエルが核兵器を保有している中で戦争は出来ないと考えたようである。この条約でエジプトはシナイ半島を取り戻した。しかしアラブ諸国の中で孤立した。その後、1981年10月6日、サダトはイスラム過激派ジハード団に属する陸軍中尉イスランブリに暗殺された。しかしムバラクがその跡を継ぎ、サダト路線をこれまで継承してきた。ムバラクはイスラエルとの関係では「冷たい平和」を実施し、アラブ諸国よりの孤立を徐々に脱出、アラブの盟主としての地位を回復してきた。冷たい平和でも国境は静謐であった。

 1994年にはヨルダン・イスラエル平和条約も締結された。

4. この歴史を踏まえると、イスラエルにとってのエジプトの意味、隣の大国であって安全保障上決定的な意味を持つ国であることが分かる。イスラエルが戦った戦争はすべてエジプトが主役を演じた戦争であり、エジプトとの平和条約はイスラエルにとりほとんど命綱です。

 イスラエルで「エジプトとの平和がある限り、戦争はない。シリヤとの戦争が終らない限り、平和はない。」とよく言われる。簡潔に真実を突いている。

 イスラエルはこれまでアラブ諸国との戦争で連戦連勝をしてきた。しかし100戦戦って、100回勝つ必要がイスラエルにはある。99回、99%勝つのでは不十分で、一回負ければ、イスラエルは多分消滅するでしょう。そういう危険がある。

 日本の命綱は日米安保条約です。しかしイスラエルは米との安保条約をもっていません。米・イスラエル同盟とよく言われますし、米・イスラエル関係は日米関係以上に深い。しかし安保条約はない。クリントン大統領が米が安保条約の締結を提案したが、イスラエルはこれを拒否した。拒否の理由は二つ、第1に同盟を結べば行動の自由が奪われる、イラクのオシラク原子炉爆撃のようなことが出来なくなるということ、第2に、他国の安全保障約束など信じられないということであった。私の知人は「他民族の安全保障約束など信じてはならないというのがユダヤ人の歴史的経験なのだ」と言っていた。

5.  さて今回のエジプトの政変に対するイスラエルの見方ですが、一言で言うと、イスラ エルは驚きと強い不安を持ってエジプト情勢の成り行きを見ている。アラブの民主化ということで喜ぶという感情はほとんどない。アラブで民主主義が成立するということを信じられない気持ちが強い。最も大事な隣国、エジプトでサダト路線を継承してきたムバラク政権が倒れたことに危惧をもっている。

 イスラエル・エジプト平和条約は両国間の平和を保障するだけのものではない。この地域の戦略環境を決定づける意味を持っている。湾岸諸国をふくめ、この地域での親米的政権の存立を下支えする効果がある。

 デモがチュニジアからエジプトに波及した時、イスラエルはムバラク政権の存続を望んだ。米にも働きかけたが、オバマはムバラク退陣を迫ることになった。サウジもムバラクを残すように米国に要請したが、オバマはその要請も拒否した。

 2月11日にスレイマン副大統領がムバラク辞任を発表、軍最高評議会が全権限を引き継ぐことを発表した。2月12日、軍最高評議会はイスラエルとの平和条約を含む諸条約・協定を引き継ぐと声明した。2月13日には憲法を停止し、議会を解散するとともに、憲法改正のための委員会を結成するとの声明を出した。ここで起こったことは軍事クーデタであって、革命ではない。

 イスラエルは平和条約維持声明でひとまず安堵したが、まだ不安を持っている。

 2月23日、ネタニヤフ首相はクネセット(議会)演説をした。その中でこう述べた。
  「・・アフガニスタンからマグレブまで、・・地が揺れている。・・未だ全く終わっていない。違いはある。各国はそれぞれ違う。しかし全地域に共通なこともある。それはこの地域が極端に不安定な地域であると言うことである。

 この不安定さはどこから来るのか。これは20世紀に世界に広まった進歩と政治・経済の改革が概してアラブ世界と多くのイスラム世界を取り残したと言う事実から来る。21世紀が、・・インターネットやソ―シャル・ネットワークを通じ、新しい技術の力と情報とともに来た。それがこれらの社会に強い打撃を与えた。これらの国の市民は何が欠けているのかを知るにいたった。変化は・・徐々に起こらず、巨大な騒動を引き起こした。この不安定は何年も続き得る。我々は最善を望み、そして最善を尽くす。そしてアラブ世界もイランも本当の民主主義になることを希望する。しかし他の可能性もある。我々はいかなるシナリオにも備えなければならない。この不安定は既に諸国で活発な否定的な勢力により悪用されている。我々は過激なイスラム主義者を考慮に入れなければならない。我々が頼りうるすべては我々自身の強さ、我々の団結、我々自身を保護する我々の決意である。

 ここでは・・平和的関係が一瞬で蒸発し得る。これは我々が一つの国と持っていた事実上の関係に起こった。経済的その他の紐帯がイランで1979年に革命が起こった時、一瞬で崩壊した。トルコが政策の方向を変えた時、一夜で40万人の観光客がいなくなった。私はもちろん以前の関係に戻ることを希望している。

 今日我々はエジプトとヨルダンとの平和協定が生き残り、より強くなることが確実であるようにする必要があると知っている。

 我々はレバノンから完全に撤退した。そこにイランが入り込んだ。我々はガザから完全に撤退した。そしてイランが入り込んだ。イスラエルは安全保障措置合意なしに西岸から撤退する余裕を持たない。こういうことを3度目も起こらせることはできない。

 我々の目前で展開している歴史的な出来事の中で、我々が現実を適切に理解することは今日国家にとり大切である。これは性急な決定ではなく、注意深さを要求する。」

 ネタニヤフ演説はイスラエルの懸念の大枠を示している。

6. 今回のアラブの騒乱を民主化要求と性格づけることやツイタ―やフェース・ブック効果ですべてを説明する説にはあまり説得力はない。社会的、政治的、経済的要因が複合した結果、こういうことが起きたが、より重要なのは今後である。

 イスラエルの心配はエジプトが今後どうなるか、それが平和協定にどう影響するかを中心としている。

 現在、エジプトは軍最高評議会が統治している。しかし軍は、統治を続ける気はないし、能力も多分ない。今後、議会選挙と大統領選挙が行われる。議会選挙は6月位、大統領選挙は8月位になると考えられている。

 イスラエルはエジプト軍との関係を大切にしてきた。エジプト軍は米との関係で大きな恩恵を受けてきたし、米との関係もよい。また軍というものは現実的である。軍が強い役割を保持し続ける限り、平和条約は持つとイスラエルは判断している。

 1952年以来、エジプトでは軍がナセル、サダト、ムバラクの後ろ盾でいた。これが変わらないこと、エジプトのそういう意味での安定をイスラエルは希望しているが、これが変わるのではないか、更にその先にイスラム色の強い政権が成立するのではないかとイスラエルは懸念している。

 今度、行われる議会選挙でも大統領選挙でもイスラエルへの対応が一つの争点になるこが、議会選挙でも大統領選挙でも親イスラエルを主張して当選することはない。イスラエルとの関係の見直しが主張されることになろう。政権につけば、平和条約維持になる可能性が高いが、まだ見当がつかない。

 イスラム色の強い政府かどうかと反イスラエルの政府かどうかは二つの違う問題である。イスラム色の強い政権は反イスラエルになるが、イスラム色は強くなくてもアラブ民族主義の立場から反イスラエルであることは十分にあり得ることである。

 ムスリム同胞団は平和条約に否定的な態度を表明しているが、2005年末の議会選挙で民選議席444のうち、88議席を獲得した。約20%の議席を得た。ムスリム同胞団は穏健であるし、ここしばらくは、まず社会福祉活動を通じて勢力拡大を図りつつ、選挙で徐々に地歩を築く戦術を採用すると思われる。急いで前に出て、再度弾圧を招くことを避けるだろうが、徐々に勢力を伸ばすことになるだろう。

 選挙の後、新憲法が制定されることになる。制憲会議の構成や新憲法の内容はまだ決まっていない。重要なポイントはこの憲法で軍の位置づけがどうなるのかと、イスラムの位置づけ、逆に言うと世俗主義の位置づけがどうなるのか、その二つの要素がどう絡み合うのかの問題である。

 どうなるかは不透明である。私の見通しを言うと、政治の場で軍が大きな役割を担う形は難しいだろうし、イスラム色の強い政権が成立する可能性は否定できない。イスラエルにとり大きな問題である。

 トルコではケマル・アタチュルクの建国の理念である世俗主義が憲法に規定されている。これを根拠に憲法裁判所がイスラム政党の排除などが行ってきた。いざという時には、イスラム化を軍がクーデタで防いできた。しかし今では、軍は弱体化し文民統制が強化され、軍はその政治力を失ってきた。建国の父で、絶対的な尊敬の的であるケマル・アタチュルクの遺言でさえそういう変化を経てきた。

 エジプト軍はヨム・キプール戦争でのいわゆる勝利からの威信、今回のデモでの中立的対応により権威を有しているが、それでも軍が政治に大きな役割を果たす憲法は考え難い。 エジプト軍は国の守護者や治安の究極の保障者としての役割になるだろう。いわば「制度としての軍」としての役割と統治組織の一部としての役割、いわば「政府としての軍」の両面の性格を持ってきたが、今後のエジプトで「政府としての軍」はその役割を減らすと考えていいのではないか。

 新憲法でイスラムの役割がどうなるのか、世俗主義、イスラムと国家の分離はどれほど強いものになるか、よくわからない。

 全体としてエジプト政治は程度の如何は別にして民主化される。ムバラク政権は対米関係、対外関係を考慮し、親イスラエルであったが、エジプト国民は政権よりもずっと反イスラエル感情をもっている。民主化したエジプトの政策は国民感情を反映して、反イスラエル的なものになってくるであろう。

 イスラエル側は、エジプトでの騒動はイスラエル問題で起こったことではないと認識しているし、これは正しい。しかし国内で政治が混乱する場合、対外的に敵を作りだし、それに対抗する必要を叫んで、国内での団結を強化し、政治的な苦境を克服しようとする事例は歴史に多くある。イスラエルが標的にされる危険は現実にある。

 イスラエルは自国をめぐる戦略環境が根本的に変わってきたと考えている。イスラエルの軍事費は約150億ドルで、GDPの7%になる。取りあえずこれを大幅に増加せざるを得ないと考えている。

7. イスラエルがエジプト政変に関連して、他に心配していることを簡単に説明したい。

  第1に、 イランの問題がある。イランは核開発をしている。イスラエルの核政策は「中東に核兵器を導入(introduce)する最初の国にはならない。しかし第2の国にもならない」というものである。イランの核兵器は軍事行動に訴えても阻止する決意である。 しかしこのほかに、イランがイスラエル周辺に勢力を伸ばしてきている問題がある。シリヤはイランとほぼ同盟関係にある。レバノンでは、イランから武器供給を受けているヒズボラがレバノンの政治を主導する状況がある。ヒズボラは長距離射程の新しいミサイルを含め、5万発以上のミサイルを有するまでになっている。

 イランの海軍艦艇が2月22日、1979年の革命後初めてスエズ運河を通り、シリヤに行った。エジプトの新政権は通過許可を拒否し得たが、そうはしなかった。これは武器供給の新しいルートになる。

 ガザを支配するハマスへのイランの影響力はどんどん強化されている。イスラエルはガザの封鎖をエジプトの協力を得て武器供給を止めるためにしてきた。ガザ封鎖はエジプトの協力がないと成立しない。今後、エジプト側の協力を得られなく可能性がある。

 第2に、 アラブ諸国でのイスラム過激派の台頭を恐れている。エジプトのムスリム同胞団は暴力を放棄し、穏健であるが、イスラエルはエジプトでイスラム勢力、過激派が政権中枢に来ることを恐れている。このイスラエルの怖れは過剰なものであると私は思うが、イスラエル人はそう思っていない。彼らは今のモスリム同胞団がすぐ脅威になるとはもちろん考えていない。しかし革命的状況は1789年の仏革命、1848年の仏革命とそれに引き続く欧州各国での革命騒動、1917年のロシア革命、1979年のイラン革命を見ても、最も意思が固く良く組織された少数派が革命を乗っ取るというのが通常の姿である。革命は革命の生みの親や子供たちを食い殺すと言われるが、そういうことが起こる。1917年のロシア革命は民主化革命であったが、ケレンスキーやメンシェビキは、最後は少数派であったボリシェビキに駆逐された。1979年のイラン革命は若者やバザール商人のシャー体制への不満から起こったが、ホメイニを筆頭とするイスラム原理主義者によって結局乗っ取られた。イスラエルの心配にも一理はある。

 第3に、イエーメンやリビヤなどが破綻国家化し、アルカイダなどのテロの温床になることもあり得る。これもイスラエルは恐れている。

 第4に、イスラエルはトルコがますますイスラム化し、エジプトが変わり、イランの影響力が増えるなかで、孤立を心底恐れていると言えるだろう。

  イスラエルからは、エジプトの政変がどう見えているかの大枠はこういうものである。

8.  このアラブでの民主化について、一言。  

 レンティア国家論、地代国家論というのがある。大体、一人当たり国民所得が5000ドルくらいになると、民主化要求が出てくるが、アラブ産油国では、一人当たり2万ドルくらいになっても民主化は起こらなかった。これは産油国がレンティア国家の典型で、要するに国民が税金を納めてそれで国家を維持しているというのではなく、国家がレントである石油収入を国民に配分しているという関係にあるからである。

 米国の独立戦争はボストンの茶会から始まった。ここでのスローガンは「代表なくして課税なし」であった。レンティア国家ではこれが逆になる。「課税がないから代表もなし」ということである。

 イスラムと民主主義の関係については、私はイスラムは民主主義に親和的な面があると思う。フランス革命のスローガンは自由、平等、博愛であるが、イスラムには博愛の精神もあるが、何よりも強い人間平等の思想がある。自由については、イスラム教徒はそれほど重きを置かない。サウジの王様はアブドラといい、ヨルダンの王様はアブダラという。このアブドというのは奴隷の意味である。要するに「アラーの奴隷」という意味で、神の奴隷であることに価値が置かれている。神が定めた法は人間が定めた法を上回る。そういう意味で議会が定めた法がコーランに違反すると無効になる。しかしコーランは私は何度か読んでみたが、色々なことが書いてある。サダトがエルサレムから帰った時、出迎えた群衆はコーランの1節を唱和し、歓迎した。オサマが自らのイスラム解釈を補強するコーランの個所を引用することも容易にできる。そういう意味で、人定法否定をそれほど重視することもない。イスラムは施政者の地位を絶対化しない。アラーが偉大であり、政府はそのずっと下にいる。制限された政府の考えがある。

9.  最後に中東情勢を見て行く上で、皆さんにぜひ念頭に置いておいていただきたい点が ある。それは中東地域は4つの民族、ユダヤ、トルコ、アラブ、ペルシャの角逐の場であるということである。ユダヤを除く3民族は歴史の中で大帝国を築いてきた民族である。アラブは共和制と王制、反米と親米の二つの軸で分裂してきた。今回のアラブの覚醒がどういうことになるのか、見通しがたいが、これまで分裂して勢いがなかったアラブが影響力を盛り返すのか、ペルシャ、トルコがより強くなるのか、ユダヤはどうかというような視点をぜひ頭の片隅に置いておいていただきたい。(了)