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外交研究会 要旨 (2011年)

古代日本の中国語学習   

 2011.6.21   
  湯 沢 質 幸

はじめに

 日本古代、アジアの超大国中国の文化を摂取することは、隣国日本にとっては国家の存亡に関わる大問題であった。他の異文化摂取におけると同様、中国文化の摂取はほとんど、先進国である中国の言語=中国語によって行われた。もともと中国語も中国文化の一つである。したがって、中国語の学習は、早くも中国文化の一つを学んでいることにほかならない。そして同時に中国から政治・思想・法学・文学・宗教その他、もろもろのものを学び、かつ消化していく上での、最強にして最大の手段を手に入れるということであった。日本の生き残りをかけて外国語を学習するのは現在も同じである。しかし、いろいろな外国、外国語と交わっている今日と異なり古代は、アジアの共通語(リンガフランカ)たる中国語のみが学習すべき唯一の対象であった。ちなみに、古代当時朝鮮語ももちろん学ぶべき言語ではあった。しかし、そもそもその朝鮮半島諸国自体も日本と同じく、中国語学習を絶対不可欠としていた。したがって、その必要度は必ずしも高くなかった。

 では、古代日本は中国語をどのように学習していたのだろうか。ここでは、次の理由から、古代の範囲を、8世紀から9世紀末まで、おおよそ奈良時代から平安時代初期、中国で言えば唐(618-907)の全盛期から末期までとする。

  1. その当時日本はすでに国家として確立していたこと。
  2. 当時は中国との公的な接触や交流がとりわけ盛んに行われていたこと。
  3. 近世以前には他に類を見ない、国家による中国文化摂取、中国語教育・学習政策が積極的に行われていたこと。
  4. 中世以前の日本の中国語学習に関して、情報がもっとも豊富に残されていること。

また、次の理由から、大学寮における中国語学習を軸にして検討を進めていく。

  1. 当時大学寮は国内最大の国立教育機関として、中国文化摂取の最前線にいたこと。
  2. したがって、そこではこれもまた国内最大規模で組織的な中国語教育・学習が行われていたこと。

 すなわち、大学寮における中国語の教育・学習を観察していけば、必ずや古代日本における中国語学習の骨格が把握できると見込まれることによる。(明治時代の帝国大学における外国語教育・学習のあり方を観察すれば、当時の日本の外国語学習の概要がうかがわれることと同じである。)

 次いで、大学寮の考察を踏まえながらその関連において通訳養成や儒学界、仏教界など、中国語学習の行われた他の分野を取り上げ、最後に東アジアにおける古代日本の中国語学習の輪郭を描いてみる。

1 大学寮の中国語教育・学習 

1-1 大学寮の目的・組織・カリキュラム

① 設置目的:701年発布の大宝律令のもとで国家を再構築していくために、中央高級幹部官僚や中央事務官僚を養成すること。
② 設置学科:儒学科(明経道)定員400 数学科(算道)定員30
    *大学寮の主体は前者なので、以下後者は無視する。
③ 入学資格:13-16歳の、五位以上の貴族の子弟。及び文書作成官僚(史部(ふひとべ)の子。   
    *学生の主体は前者なので、以下後者は無視する。
④ 在学年限:9年
⑤ 教官:儒学科=博士(正6位下)1・助教(じょきょう・すけ)(正7位下)2・音博士(従7位上) 22・書博士(従7位上)2  数学科=算博士(従7位上)2
⑥ 教科書:儒学科=『周易』『尚書』『周礼』『儀礼』『礼記』『毛詩』『春秋左氏伝』『孝経』『論語』など。*各書の注釈書も指定。
⑦ 官吏登用試験・貢挙(ぐこ・こうきょ)   *位階数全30
秀才科-論文―――――――――――――――――――――正八位上(23位)~下
明経科-教科書の内容についての口頭試問――――――――正八位下~従八位上
進士科-実務に関わる論文試験と『文選』『爾雅』の諳誦試験―従八位下~大初位上
明法科-律令の内容についての口頭試問―――――――大初位上~大初位下(28位)

  • 大学寮は儒学科を中心としていること、中国語学習と言えるものは儒学科のみで行われたことから、以下、大学寮=儒学科とする。
  • 国立学校は、そのほか大学寮を小規模にした府学と国学が、それぞれ太宰府と各国に置かれた。
  • 上記は令制の規定である。後に史学科(紀伝道)ないし文学科(文章道)や法学科(明法道) などが増設されたが、基本的な学業は各専攻共通の所が多いので、すべて儒学科の中に入れておく。ただし、日本の律令を教授する明法科には儒学科のような中国語の授業はなかったので、以下、大学寮から除外する。

1-2 中国音学習  

1-2-1 重視 

① 音博士の配置。音博士は中国語教官でなく中国音教官である。大学寮の手本とした中国や朝鮮半島諸国の学校にはこれに相当する教官はいない。学生は入学するとまず音博士から、儒書を正しい中国語の音声=漢音で読むための授業を白読=素読で受ける。教科書は6世紀前半、8世紀中頃に作られたたそれぞれ『千字文』(「天地玄黄 宇宙洪荒」)、『蒙求』(「孫康映雪 車胤集蛍」)などである。白読習得後は、博士と助教から規定の教科書(儒書)で音読と講義の授業を受ける。なお、同時に作文すなわち漢字漢文の書き方を学ぶ。
② 博士2名の配置。他国にない教官の配置とその人数。専門教官3、書博士22、算博士2など と比べて多いのでないか。
③ 漢音奨励の勅。最高の法令である勅でもって漢音奨励を行っているのは、朝廷がその学習をことのほか重視していたことを示している。 792年  (桓武天皇)勅。明経の徒は音を習ふを事とせず。発声誦読は既に訛謬を致す。宜しく漢音に熟習すべし。 『日本紀略』 *「明経の徒」=儒学科学生。 *呉音・漢音→4-2-2
④ 音博士への外国人教員の採用。続守言・薩弘恪(大宝律令作成に参画)・袁晋卿(大学頭・安房守)等を任命。
⑤ 音道設置。817年中国音習得のみで卒業する課程を新設。
⑥ 正史の伝記における中国音力の賞賛・誹謗。→1-2-2⑤ 朝野鹿取774-843「兼て漢音を知る。始めて音生(音道の入試)を試む」『続日本後紀』 仁明天皇810-850「能く漢音を練ず。其の清濁を弁ず」同
⑦ 中国音学習に熱心な学生ないし入学希望者がいたこと。
   a 朝野鹿取(→⑥)や、中国語会話まで学んだ学生がいた。
920年 明経学生刑部高名参内す。漢語の者(前年来朝した渤海使対応の中国語通訳)の 事を問はしむ。高名奏して云々。『扶桑略記』    
漢文と結びついている音読と会話とは異なる。しかし、音声使用という点では同じである。 このことや、大学寮に会話の授業はなかったことなどから、この記録は高名が会話に通じて いたことだけでなく、それ以前に音読に堪能であったことを間接的に示唆しているものと解釈される。
   b 「勧学院の雀は蒙求を囀る」 勧学院で子供達は『蒙求』の中国音音読を、白読で繰り返し繰 り返し一生懸命勉強している。聞いている軒端の雀も、いつの間にやらにぎやかに『蒙求』 の音読をするようになった。→1-2-1①

1-2-2 軽視 

① (1-1⑤)音博士の官位。専門科目教科教員である博士や助教より低い。
② (1-1⑦)中国音に関わる試験。中国音力が評価の対象となりうる試験は、進士科における漢詩文諳誦しかない。他科と比べると、進士科合格者の授与官位は中以下。
③ (1-2-1①)白読の授業の位置づけ。白読の学習は一般基礎教養科目である。一般科目は専門科目より低位に置かれることが多い。
④ (1-2-1③)学生の漢音不勉強。彼らが真面目に中国音の学習をしていなかったので、奨励の勅が出された。(多くの学生にあっては、日本語と大きく隔たる中国音を学ぶということは苦痛以外の何ものでもなかったのかもしれない)。
⑤ 中国音力より儒書解義力の方が上位。 善道真貞(よしみちのまささだ)769-845:学生の時から秀才の誉れ高く、儒学科教官や大学寮副長官、皇太子の教育係などを歴任。『春秋左氏伝』や『礼記』などの講義に抜群の力を発揮。しかし「旧来漢音を学ばず。字の四声を弁ぜず。教授に至りては惣じて世俗踳訛(しゅんくわ)の音を用ふのみ」であった(『続日本後紀』)。
⑥ 作文力最重視。文章経国の思想が尊重される。次の勅は大学寮に出されたものではないが、大学寮は朝廷の一部であること(→1-4)、大学寮での最終目標が作文力にあったことは例えば官吏登用試験における最難関・秀才科の試験が論文であったこと(1-1⑦)などから知られる。
812年「(嵯峨天皇の)勅。国を(をさ)め家を治むるに文より善きはなく、身を立て名を掲ぐるに学より尚きはなし」『日本後紀』  *嵯峨天皇786-842(在位809-823)
*814~27年:勅撰漢詩文集の初編纂=『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』

1-3 儒書解義・作文力のより重視 

*白読も含め声を上げて文を読むという点において、音読は音声言語(話すこと・聞くこと)の世界に属す。しかし、この意における音読の有無にかかわらず、読んで文の内容を把握し理解すること=解義及び作文は文字言語(読むこと・書くこと)に属する。
1-2の各項に対しては説明を割愛した所もあるが、すべて朝廷の中国音学習の重視ないし軽 視があったことからそこで指摘したようなことが生じたものと考えられる。
さて、1-2-1と1-2-2を重ね、また大学寮は首都にあるただ一つの、しかも国内最大の国立エリート養成学校であることを踏まえると、次のようなことがおのずと浮上してくる。
① 大学寮では文字言語の世界の儒書を音声言語の世界の中国語音声で読むことが、学問の第一歩として重視されていた。
② しかし、読書用中国音習得以上に重視されたのは、文字言語たる儒書の内容を学ぶこと、解義という意での読むことであった。なお、この時点では音読力は必ずしも問われなかった。
③ 解義と同じく文字言語の世界に属する漢文を書くことは、中国語学習における最終目標となっていた。
④ 立派な文章を書くには、儒書の読書によって培われる高度な学識が必要である。つまり、高い解義力があって、初めて高い作文力を得ることができる。
⑤ したがって、学生は読むこと=解義と、書くこと=作文の学習に、読むこと=音読の学習に使う以上の力を注いだ。
 以上、大学寮の中国語学習は、音読を大切にしながらも文字言語=読み書き能力を磨くこと、最終的には優れた作文力を身につけることを目的として行われていた。
 なお、解義や作文に強くなるには、何よりもまず漢字を徹底的に学ばねばならない。また、その漢字で書かれた先人の優れた文に接し、それを我がものとすることも必要である。そのために学生は、教科書だけでなく『爾雅』『文選』などといった字書や名文集にも親しまねばならなかった。

 *漢字は表語文字である。したがって、その数はほとんど無数に近い。ここに漢字が貴族の文字と呼ばれるゆえんがあるが、とにもかくにも、固有の文字を持っていなかった日本人は、中国文化摂取とは別に、日本人同士の意思疎通のためにも外交のためにも、子安宣邦氏の言う「不可避の他者」すなわち漢字をしっかりと学ばねばならなかった。現在は国によって漢字が約2千に制限されているが、それでも漢字を覚えるのには苦労する。(なお、そのコミュニケーションにおける利用価値からして、少なくとも古代日本人は漢字を、好まざるものといったマイナスニュアンスを伴う「不可避の他者」などととらえていたのでなく、「遠来の恋人」くらいに思っていたのでないだろうか。)

1-4 大学寮と朝廷・儒学界 

 中国語学習に関する認識や評価などはすべて、 大学寮=朝廷=儒学界、であった。
① 大学寮は朝廷によって設立され運営された学校であること。    
② その教育内容は朝廷が自らの根本に据えていた儒学を中心とするものだったこと。
③ 大学寮教官になった者も含めて、その卒業生は儒学界の構成メンバーでもあれば中央の幹部官僚でもあったこと。
④ 儒学教育を行う純民間教育機関はなかったこと。
⑤ 大学寮の儒学中心の教育が、官僚が支配している儒学界と無縁であるはずがないこと。
⑥ 大学寮生だった頃の朝野鹿取も、大学寮で学んだことはないが儒学に通じていた仁明天皇も、ともにその漢音音読力が賞賛されていること。→1-2-1⑥

1-5 大学寮と通訳養成-中国語会話の学習- 

1-5-1 通訳(訳語(おさ)・通事)養成の法令

 817年 勅「宜しく、年三十以下の聡令の徒、入色(にふ)しき)四人、白丁六人を選び、大学寮において、漢語を学ばしむべし。『日本紀略』     *入色も白丁も最下層の官人。
 *通訳の存在例:607年「小野の臣妹子を大唐に遣す。鞍作(くらのつくりの)の福利を以ちて通事とす」『日本書紀』   
 *通訳養成の先例:730年太政官奏「粟田朝臣馬養(あはたあそんうまかひ)播磨直乙安(はりまのあたひおとやす)陽胡史真身(やごのふひとまみ)秦忌寸朝元(はたのいみきてうげん)文元貞(ぶんのげんてい)等五人に仰せて、各弟子二人を取りて、漢語を習はしむ。」『続日本紀』
 大学寮での通訳養成は、大学寮が中国語教育を行っていたことによる。ただし、本体たる儒学 科と通訳養成コースとの間に乗り入れはなかった。それは、儒学の学習と中国語会話の学習との 間には、大きな溝があったことによる(現在の一部の大学における学部と大学附属外国語学校との関係に、一脈あい通じる所があるのかもしれない)。
① 大学寮における古典中国文たる漢文音読用の中国音と、通訳養成コースの、その当時の会話音との間、またその学習法、学習の目的などに相違があること。
② 寮生と通訳コースの者との間には、地位身分に大きな隔たりがあること。 大学寮を舞台にした計画的な通訳の養成はまもなくなく消滅した。それは、9世紀半ば以降、朝廷が高僧(伝灯大法師)を還俗させて遣唐使の通訳(紀春主)にしたことや、渤海国との外交に際して場あたり的に下級官僚から通訳を徴用したことなどから知られる。ちなみに、730年の奏による養成も頓挫したことが、817年に勅が出されたことから分かる。

1-5-2 会話軽視

儒学科に会話の授業がないことや、通訳養成コース入学者の身分や通訳の地位などは、会話の学習が高等技能の習得であり、儒学の学習よりかなり低位とされていたこと、つまり会話は貴人が積極的に学ぶ必要はないものとされていたことを示している。このため、寮生の場合、中国語会話は個人的に習はざるをえなかったと考えられる(→1-2-1⑦a刑部高名)。
 *通訳の最高位は渤海使通訳を務めた春日宅成(やかなり)の正6位上。最初に任用された859年の時は大初位下(28位)。なお、遣唐使での通訳の最高位は外交官より下、船長と同等。
 *会話軽視の点において、橘逸勢?-842のエピソードは示唆的である。逸勢は儒学の長期留学生として802年に入唐。しかし早期帰国の申請書を提出した。その理由の第一が、自身の中国語会話力不足であった。逸勢は儒学に秀でていた。解義力、作文力も持っていた。だからこそ入留学生に選ばれたのである。その彼の、空海代筆の申請書に、会話力のなさを恥じている気配は微塵もない。806年帰朝。

2 私立学校の中国語教育

 9世紀、有力貴族は大学寮入学前の子弟に予備教育を施すための学校を立てた。
 弘文院=9世紀初:和気氏 勧学院=821年:藤原氏 学館院=847年:橘氏 貴族政治の時代、私立学校とはいえ実体は国立学校に近く、後には大学寮に吸収された。学習内容はよく分からないが、大学寮で最初に学ぶ白読の勉強を熱心にしていたことは確かである。 「勧学院の雀は蒙求を囀る」:鎌倉初期成『宝物集』→1-2-1 ⑦b

3 仏教界の中国語学習

 仏教界は儒学界とともに中国文化摂取の二大窓口の一つであった。

3-1 個人的な学習

 仏教界に公的な学校はなかった。各寺院、宗派において、仏典を通して大学寮と同様に音読や漢文の解義、作文などを学んだ。ただし使用音は呉音であった。また会話の学習は、例えば次の①②にうかがわれるように、儒学界と同じく個人的に行われた。その時の使用音は当時の中国音=漢音であった。
① 渡来僧道(せん)702-760は、鑑真688-763の弟子思託?-?に戒律の講義を依頼した。 璿が弟子にて漢語を(なら)ふ者は、(思託から)励疏并びに鎮国記を学ばしむ。『唐大和上東征伝』

3-2 漢音強制

仏教界へも得度試験において漢音学習が義務づけられた。
 793年「制。今より以後、年分度者(年ごとの得度試験の受験者)は漢音を習はずして得度せしむること勿れ」『日本紀略』『類聚国史』
その後も朝廷は数回同様の法令を出した。しかし、もともと仏教界には大学寮のような、漢音 を教える機関はなかったことや、呉音による読誦の伝統が強かったことなどから、朝廷は次のような法令を出すに至った。その結果、平安初期の内に漢音の受験者はいなくなった。   
 804年「勅。・・・・・・其れ広く経論に渉り、義を殊に高く習ふ者は、漢音に限ること勿れ。」
   『日本後紀』『類聚国史』
 仏典の解義にすぐれた受験者には、漢音読誦の試験を免除した。これは、大学寮・儒学界にお いて音読以上に解義を優先したことと軌を一にしている。かくして、仏教界では呉音による仏典読誦が後世まで維持された。
 *仏教への漢音強制やその断念は、学令制定つまり大学寮=儒学に対する強制より約百年遅いことと相俟って、朝廷が中国文化摂取において仏教より儒学を上位に置いていたことを示唆している。これは儒学が国家の基盤となるものなのに対して、仏教はあくまでも宗教であったことによるものと考えられる。

4 日本の中国語学習の特色 

4-1 書記言語としての中国語偏重

 解義と作文すなわち読み書きの学習重視、ひるがえって会話や中国音による読みの、相対的な 軽視、古代日本の中国語学習の特色はこの、書記言語としての中国語の重視、と言うより偏重にある。しかしながら、日本に比べると中国語会話の学習がずっと盛んだった朝鮮半島諸国でも、音読が保持されていること以外は、ほぼ日本と同様である。また明治以降における日本の欧米文化移入に伴う外国語学習にあっても、似たようなことが起こっている。つまり読み書き能力最優先は、外国語学習にあっては普遍的なことととらえなければならないようであり、そして、それは次のような理由から必然的に生じるものだったと考えられる。
① 一般に一国の文化の蓄積と確立は、文字言語によってなされること。
② したがって、文字を持つ国の文化を摂取するには、その国の文字で書かれたその国の書物の内容をしっかりと把握し理解すること、すなわち解義が必要不可欠であり、かつ効率的であること。
③ 文字を持っていなかった日本やほかの中国周辺諸国は、漢字を積極的に取り入れて、内外における意思疎通を図らなければならなかった。それには受信のための解義力のみならず、発信のための漢文作成力も必要不可欠であったこと。
 以上、古代日本の中国語学習の特色かと思われたものは、実はそうではなかったということに なる。とはいえ、日本には日本なりの中国語学習もあればその消化もあった。

4-2 日本独自の特色

4-2-1 音読学習の消滅と訓読の発展
4-2-1-1 音読と訓読

 一般に外国文を読むという時には、まずは声を立ててその外国語の音で読む、つまり音読をす る。その後翻訳をして内容を把握する、つまり解義をしていく。ところが、日本では9世紀平安時代初期以前から、一定の方式にのっとって漢文を直接日本語の文(読み下し文)にすること、すなわち訓読が広がっていった。それと逆比例して同時に、中国音音読が廃滅に向かっていった。漢文から直接日本文を作るのは一種の直訳である。したがって、外国語学習にあってそれ自体は、決して珍しくもなんでもない。しかし、それが一定の方式にのっとって行われること、当該外国語による音読を排除するものであったこと、つまり漢文に対してはいつも最初から翻訳に入るということは、特異と言わねばならない。ちなみに、韓国は現在でも漢文を自国伝統の中国音で音読している。
  *『論語』「子曰学而時習之。不亦説乎」:音読(現在の漢音)「子曰学而時習之(シエツカクジシシュウシ)不亦説乎(フエキセツコ)」   
  vs.訓読「子曰(しいは)く学びて時に之を習ふ、亦説(またたの)しから()や」。なお、一定の方式による訓読を指示するために、数字(一、二・・)や記号(返り点=レ)また仮名などを漢文の文面に加えるようになった。
 訓読は平安中期10世紀あたりに確立した。同時に中国音音読はほぼ完全に廃滅した。その結 果、漢文を読むということは訓読を意味するようになった。当然、漢文の学習も訓読の学習から始まることになった。したがって、素読とは訓読を指す語に変わった。ただし、仏教界においては、各宗派のアイデンティティの確立やその宗教的価値などといった宗教上の理由から、訓読が広まる一方、音読は音読で仏典において現在まで続いている。
 なお、訓読にあっても中国音によって作られている語=漢語の音読はそのまま続いた。そのため正しい訓読探求の一環として、漢語の読みが以前と同様文字通り徹底的に穿鑿された。

4-2-1-2 訓読勝利の理由

 訓読が音読を排除しつつ漢文と密着な関係を結んだ、というより結べたのはなぜか。それは前述のように、訓読が翻訳の一種だからである。人は訓読の方式を心得てさえいれば、漢文に対峙して即座に読書の目的=解義に入れる。便利この上ない読書法、それが訓読である。
 加えて、音読は解義の役に立たないことや中国音の学習は苦痛この上ないことなども、訓読の 勢力拡張に一役買ったに違いない。なお、漢文を声を上げて読まねばならない講義や、複数の者が文書を検討する時なども、訓読は都合がいい。直訳体ではあるけれども、訓読によって生まれたこの文は、レッキとした日本語文だからである。したがって、それを聞けばある程度は内容もつかめる。
  時代を重ねるごとに訓読の方式は固まって行き、訓読文のスタイルも洗練の度を加えていった。かくして、平安時代中期、訓読は音読を完全に駆逐した。  
 ところで、訓読と作文の関係はどうなのだろうか。訓読に作文に役立ちそうな所はない。しかしながら、音読もまた役に立たない。→5

 *「中国音音読は解義の役にたたない」:この点については反論が出されそうである。漢文の音的な美しさや漢詩の韻律は中国音音読によって初めて分かるものなのでないか、と。しかしながら、しかるべき漢文とは中国古典文に範を取った文語文である。一方、中国音は時代の流れに沿ってどんどんと移り変わっていく。したがって、中国人自身にあっても〈音読をすれば漢文の美しさがよく分かる〉などと簡単には言えない。ましてや中国人ならぬ日本人の場合、いったいどのくらい音読によって漢文の音的な美しさを理解できたのであろうか。また、たとえ理解できたとして、それが日本人における漢文の意味内容の把握=解義にどのように役に立ったのだろうか。もとより漢文の基本的な役割は情報伝達にある。すなわち、漢文において音的な美しさは付加的な価値しかない。以上、中国音による音読は、端的に言えば古代日本人における漢文の解義に役に立っていなかったと言わざるをえない。

4-2-2 複数系統の中国音の併存 →4-2-3

呉音:6~7世紀に朝鮮半島経由で渡来してきた中国音。古代以前は儒書仏書を問わず使用。
     古代以降は仏書のみ使用。
漢音:8世紀から9世紀初期にかけて渡来した長安音。古代以降、儒書に使用。
  明 呉音ミョウ(ミヤウ) 漢音メイ・ベイ (唐音ミン 訓:あかるい・あける・あきらか・あきら)
       myou       mei   bei  ( min   akarui・akeru・akiraka・ akira)
  行   ギョウ(ギヤウ)   カウ     ( アン   ゆく・おこなう)

 *後世新しく渡来した中国音=唐音もさらに加わった。なお、訓については4-2-3。 漢字は元来1漢字1音を原則としている。中国や朝鮮半島ではそれが守られたが、日本では1字複数音が珍しくない。
 2系統の中国音が漢字に体系的重層的に蓄積した結果、儒者仏者一般人を問わず、それぞれの漢字について呉音漢音双方とその使い分けを学習せざるをえなくなった(明王ミヨウオウ・メイオウ/行年ギヨウネン・コウネン・ユクトシ?)。しかしその一方、それは、①儒学界と仏教界を分けるシンボルとなったし、②中国音がより多くの漢語を造れる、つまり漢字がより多くの漢語を表せる、その源ともなった。なお、漢字への新しい中国音の付加は一つ唐音だけでなく、今日も続いている(餃子(ギョウザ)温家宝(ウェンチァパオ))。

4-2-3 漢字と和語(訓)の結合 →4-2-2「明・行」

 漢文翻訳の過程で《ある漢字に、その漢字と同等の意味を持つ日本固有の語=和語が結びつくこと》がしばしば生じた。この結びつきは、漢字と中国音との関係のように強固なものとなった。
その結果、訓読のためにも漢語の意味を理解するためにも、当該漢字についてその和語=訓をもしっかりと学ばなければならなくなった。
その一方、この結びつきは、漢字が多くの和語(の一部分)を表すことができる源となった(明るい・明(名前)→4-2-4ìì ①「山道(やまみち))。なお、後世の外来語も訓と同様に漢字と結びついた((メートル)(グラム)韓流(ハンリュウ)李明博(イミョンバク))。

4-2-4 日本語表記への漢字の利用-仮名の誕生-

① 仮借(音だけを表すものとして漢字を用いる方法)による日本語表記が進展した。
 ì  固有名詞「斯帰斯麻(シキシマ:敷島)、有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等(ウマヤドトヨトミミノミコト:聖徳太子)」596年「元興寺露盤銘」
 ìì  歌謡・和歌「安乎爾与之(青丹によし)奈良能於保知波(奈良の大路は)由吉余家杼(行きよけど)許能山道波(この山道は)由伎安之可里家里(行き悪しかりけり)」8世紀中期『万葉集』
 ììì  散文「久呂都加乃伊弥波々古非天伎:黒塚の稲は運びてき」762年以前「正倉院仮名文書」
 
② 仮名(平仮名・片仮名)の創成。中国における複数の字体の使用や文の綴り方などを参照しつつ、一方では仮借による漢字の日本語表記を通じて仮名を作った。作り方は以下の通り。
 その字が漢字と異なり音だけを表すものであることを明示するために、元となった漢字がいかなるものなのか、判別できないくらいに字体を崩し、あるいは字画を削る。
 漢文を学んで日本人は意思疎通を図ることができるようになった。しかし漢文は所詮中国語を表すためのものである。仮名による日本語文の表記という「自前」の方法を得て、日本人は初めて自分の意思を自由に文字で書き表すことができるようになった。平安時代を通じて、日本は漢字漢文全盛の「国風暗黒(小島憲之氏)」の時代から国風文化の時代へと変わっていったが、仮名は『古今和歌集』『土佐日記』さらに『源氏物語』など、いわゆる仮名文学の誕生と発展を導き、国風文化を支えた。ただし、正式の文書や公的な記録など、しかるべき文書は以前と同じく漢文で書かれた。そして、それは少なくとも江戸時代まで続いた。
 なお、朝鮮半島では、古くから漢文の翻訳のために吏読(りと・りとう)(仮借による朝鮮語助詞助動詞の漢字 表記)が行われていた。これは日本の訓読にも影響を与えたと言われるが、漢字あるいは漢字から作った文字による朝鮮語文の表記は生まれなかった。漢字漢文だけの世にあって1446年、李氏朝鮮4代国王世宗は、朝鮮語表記のためにハングルを創成した。ただし、漢文の絶対的な位置は微動だにしなかった。
*漢字漢文が姿を消したのは第二次世界大戦後である。1948年に北朝鮮は漢字の廃止を決定、1967年に韓国も廃止に踏み切った。

4-3 中国語学習の余波・余禄

 中国語学習の余波ないし余録として生じた日本独自の特色に、政治や行政の関与は特に認められない。すべて、自然発生的に生じたものと考えられる。4-2-2「一字複数音」については、一見、朝廷による漢音強制の関与があるかのように映る。しかし、もとより朝廷は両音併存を意図してこの政策を進めたわけでない。つまり、政策の破綻があるいは併存の間接的要因となっているかといったことくらいしか言えない。加えて、音の併存に似た、漢字と訓との結合は『古事記』や『万葉集』以前、既に成立していた。すなわちこの結合がなければ成りたたない、漢字を利用して訓=日本語を表すことが、既に7世紀以前に生まれている。
 日本独自の特色を生み出したものは何か。日本の地理的条件や時代背景、あるいは日本文化論や日本人論などと関わりそうな、きわめて興味深い問題である。しかし、現在までのところ定説はない。いろいろなことが関わり合っていると推測されるくらいなので、この、日本語のガラパゴス化とでも言うべきことについては、ここではこれ以上深入りするのは避けたい。

5 古代日本の中国語学習と東アジア各国の交流

5-1 会話音と音読音

いつの時代であっても、外交や通商には会話が付きものである。日本の場合否応なしに純音声言語たる中国語会話を学ばねばならなかった。ただし、会話の習得は技能の修得と見なされていたので、例えば中国会話習得者の典型・通訳が国家の中枢に迎えられることはなかった。
 *中国語学習第二のピーク、近世中期においても会話の位置づけは古代同様だった。著名な儒者で中国語会話にも堪能だったのは一人、対馬の藩儒雨森芳洲1668-1755くらいしかいない。これに対して、文字言語たる中国語の習得は、おおよそ明治以前にあっては一貫して、しかるべき男子に求められる基礎教養であった。
 ところで、会話にはその当時当時の口語音が用いられる。そのため会話音は世の流れにつれどんどん変化していく。通訳はその会話音を学ばなければならない。一方、文字言語にも関わる音読用の音は必ずしもそうでない。中国では音読用の音も、もちろん口語音の変化に従って遅かれ早かれ変わっていく。しかし、日本や朝鮮半島では、日本古代当時使われていた音が、そのまま後世まで使われ続けた。したがって、古代当時であれば音読用中国音を学んだ日本人や朝鮮半島人なら、かたことの会話くらいはできた可能性がある。しかし、日本の呉音漢音も朝鮮の音も年を経るに従い日本化、朝鮮化が進んでいった。その結果、時代が下るにつれ、中国会話音や中国音読音と、日本の音や朝鮮の音との距離は加速度的に広がっていった。今や日本や韓国でそれぞれの國の伝統的な音を学んでも、中国語会話には何の役にも立たない。

5-2 漢文の底力

音声言語としての中国音が中国と他国とで分離一方だったのに対して、書記言語たる漢文の場合変化はないに等しかった。それは前述のように、漢文が文語文=中国古典文を規範としていたからである。作り方の基本は既に確立されている。だから、それに従って綴って行く限り、各国間に分離など起こりようはずがない。もちろん立派な文を書くには創意工夫も必要である。しかし、基本は変えようがない。
 804年空海は入唐直後に代筆した外交文書によって、一躍中国で名声を博した。古代、200年間に35(34)回来朝した渤海使の歓送迎会では、菅原道真、島田忠臣、紀長谷雄など、日本を代表する儒者が渤海国の文人と漢詩の交換をして友好を深めた。近世も同様で、朝鮮通信使の文人に対して新井白石や朝鮮通の雨森芳洲などは漢詩を贈り、そしてその返答をもらうことに心を砕いた。こういったことはすべて、東アジアで漢文が一定の作法にのっとって作られていたことによる。恐るべき漢文の底力である。
 作る上での規則が取り分けうるさいのは詩の場合である。平仄や押韻など韻律に細かな取り決 めがある。ところが、そのために早くから参考書=韻書がいくつも用意されていた。韻律は韻書にのっとって調えればよい。中国では官撰私撰、韻書が次から次へと作られた。日本古代にも中国韻書の代表格、601年成の『切韻』以下、いろいろな韻書が輸入された。だからこそ平安時代初めに、唐そして新羅の「向こうを張って」勅撰漢詩集を作ることができた(1-2-2⑦)。
 古典に基盤をおいた漢文は、東アジア共通の文字言語として江戸時代まで、さらに言えば19世紀末まで中国・日本・朝鮮半島に君臨した。公式の外交文書はすべてこれで行われた。漢詩の贈答は両国友好の証しにほかならなかった。中国、日本そして朝鮮半島諸国は、千何百年もの間、漢文によって自由に意思を通じ合うことができた。ということは、いかなる言語を外交に用いるかなどといったことに、悩む必 要は全然なかった。漢文に頼っていれば、万事、事足りた。東アジア各国間には争いごとがないわけではなかったが、各国は無意識のうちにおそらく 我々は漢文という強い絆で結ばれている、漢文に寄りかかっていれば大過ない という「甘い認識」に浸っていたのでないか。平泉先生の、(音声言語による)言葉を借用すれば、東アジアは千何百年もの間、漢文によって互いに「いい夢」を見ていたということである。

5-3 古代日本の中国語学習は国家プロジェクト

国家間の最強にして最終的な架け橋となっていただけに、漢文にはまさに国威がかかっていた。これは作文力が単に中国文化圏で男子に求められる基礎教養という段階にとどまっていたのでなく、国家の誇りに関わる重大事だったということを物語っている。この点において、古代日本の、大学寮を中心とする中国語学習は、単に
① 中国文化摂取のための手段を得るということや
② 漢文によって意思疎通を図るということだけでなく、
② 唐や新羅などと対等に、否それ以上の立場に立って外交を繰り広げるための土台づくり を目指すものだったということが知られる。つまり、それはまさに   壮大な国家プロジェクトだったのである。ただし、古代朝廷がそこまで意図していたのかどうかははっきりしないけれども。

〔主要参考文献〕

亀井孝・大藤時彦・山田俊雄編1963~66『日本語の歴史』平凡社
小島憲之1998『国風暗黒時代の文学』塙書房
子安宣邦2003『漢字論-不可避の他者-』岩波書店
久木幸男1990『日本古代学校の研究』玉川大学出版部
平泉渉2010「国語についてのちょっと変わった考え」:『分析・意見・批評』鹿島平和研究所
桃裕行1983『上代学制の研究』思文閣出版
湯沢質幸2010『古代日本人と外国語』勉誠出版

 *本稿は2011年6月21日に開催された、鹿島平和研究所・外交研究会での発表をまとめなおしたものである。その折、御出席の方々から貴重な御意見をいただいた。感謝申し上げる。