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「日中2000年の不理解」を読んで (王敏著、朝日新書)      (2007・8・5)

鹿島平和研究所評議員
元在中国大使
國廣道彦


 著者は1082年に中国政府の最初の日本留学生の一人として来日して以来、宮沢賢治の研究を初めとして、日本文化の研究に専心してきた。

 今でこそ「日中異文化の視点は当たり前になった」と著者も言うが、実は彼女は日中同文同種の考えの落とし穴をつとに指摘してきた一人である。

 その著者が、日本の文化が中国の文化とどこが本質的に違うのかと問い詰めた結果見えてきたのが、日本文化の「感性で受け止める美意識に彩られた自然融合感」だといい、それを日本文化の基層と見る。それを彼女は「動物を慈しむ文化」、「裸の付き合いをする文化」、「水に流す文化」などの切り口から豊富な資料を駆使して説明する。

 これに対して、中国文化は「儒教体系に支えられた文化」であると言う。「儒教思想の母体は黄河文明が生まれたころから培われた漢民族の素朴な生活観や家族観、倫理観、社会観、自然観、宇宙観などの総体である」という説明はわかりやすい。同時に「儒教は宗教ではない」とし、中国にはいろいろな宗教があるが、「広い国全体を見渡したとき道教が代表になる。中国を道教の国とする説は当たっている」と言う。そして、「多くの人生遍歴で儒教と道教は同居している」と言う。

 そこで、「『正義』を求める文化と『自然』を求める文化」の切り口から日中文化の比較をする。先ず、論語の「志士仁人は、生を求めて仁を害することなく、身を殺してもって仁を成すこと有り」を引いて、儒教的正義のために身を殺して歴史に名をとどめた例を次々と挙げる。これに比して、「日本人は古代から、自然の風土に託して生涯を総括するのが最も自然体としている」として、史上の有名人の辞世を分析している。

 最後に著者は日中異文化の視点から、「2000年の不理解をひもとくこころみ」をしている。その中で、日本では儒教社会では考えられないような「転向」が許容されている。「これは大変寛容な社会である」が、「逆にいえば、思想形成に『甘え』を許し、軽薄な印象はぬぐいえない」と厳しい指摘をしている。他方、「儒教中心の価値体系はイスラム教やキリスト教と共通の特徴をもって」おり、それは「その教えの正当性と絶対性の擁護である」と指摘している。ところが、日本文化は「沼地」のようで、その思想にもこだわらない脱価値観的なところがあると指摘する。このような違いにもかかわらず、日本人は「同じ人間だから」と言って、「感性への絶対的信頼」を持っているように思うと著者は言い、日本人の思考パターンが「絶対的思想として位置づけられていない」ことに注意を喚起する。

 文化論では自分の考えを事例により立証しようとするから、その一部に無理が生じることは避けがたい。例えば、この本で日本人の「遺骨信仰」に触れたところで、米国が遺骨探しをやっているとは聞かないと言っているが、ベトナムや北朝鮮で米国は今日でも行方不明兵士の遺体探しをしている。しかし、これはほとんど唯一の例外であり、著者が日本の文化・社会現象について注意深く調査しているのは、日本人の私ですら感嘆のほかない。韓国の「親日究明委員会」の動きを儒教における悪を赦さない厳しい態度の視点から説明しているのもわかりやすい。

 私も、かねてより、日本文化の本質は自然との共生にあると言ってきた。人種・宗教対立が激化し、環境破壊が深刻な問題になっているこれからの世界では、日本文化の特性が生かされるであろうとも期待している。しかし、著者が指摘する負の面についても、同感するところが多い。日本は国際的にも、国内的にも情況順応的(situational)な態度をとることが多い。これは当面の安寧を確保することには役立つが、原理・原則を曖昧にした社会が国際的に通用するのか、本質論として日本社会が解を得ていない問題である。



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