分析・意見・批評」トップページ> 「銭其琛回顧録」を読んで

「銭其琛回顧録」を読んで               (2007.06.09)

鹿島平和研究所評議員
元在中国大使
國廣道彦
<『国際問題』書評より >

 銭其琛は1998年まで10年間、中国外交部の部長を務め、その間最後の2年間は副首相を兼任し、さらに2003年まで5年間副首相を続けて務めた。また1985年から92年まで中国共産党中央委員に任命され、1992年から2002年までは政治局員を務め、政府・党双方で中国の外交を担ってきた人物である。

この本は2003年に上梓されたが、当時日本では、中国が天皇陛下の訪中を中国の国際社会の復帰のために利用したという趣旨のことを書いてあるということが注目され、余りよい感じを持たれなかった。また、銭其琛は如才なく、淡々たる性格で、いわゆる浪花節的なところがなく、日本人の間に特に親しい人もいなかったようで、日本では一般的に親日的でないと見られていた。
 私は1993年から2年余り北京に在勤して、彼と顔を合わせることが多く、外相定期協議のために訪日したときは日程を共にしたが、常に冷静且つ余裕のある態度で人に接し、個人的にもいつも私の体調に気を使うなど、人間的細やかさも示していた。さてこの回顧録だが、中国の厳しい言論統制の中で、これだけ具体的に外務次官以来の彼の外交体験を公表したのは異例と言える。核実験をめぐる問題など、都合の悪いことは省略しているという面はあるが、中国の外交を知る上で、貴重な資料であることは間違いない。
 以下、この回顧録の特徴的な点を列挙してみよう。
  1.  この本は銭其琛の「中ソ関係正常化」のための活躍から始まる。中ソ関係について、1959年からの69年までを「論戦」の10年、69年から79年までを「対抗」の10年、79年から89年までを「交渉」の10年と定義しているのが興味深い。彼は1982年10月に中ソ関係正常化のための次官級政治交渉の中国政府特使に任命された。交渉開始に当たって中国が提示した「三大障害」解消の要求は記憶に新しい。(1)中ソ国境地帯とモンゴルからのソ連軍の撤退、(2)アフガニスタンからのソ連軍の撤退、(3)カンボジアからのベトナム軍撤退のソ連の説得、の3点であった。ソ連側はこれに反論するが、ソ連側からの対中要求が何も示されなかったのも興味深い。中国の「原則外交」が対ソ外交にも遺憾なく発揮されている。
     この交渉はゴルバチョフの出現により解決へ向かう。その間銭其琛はシュバルナゼ外務大臣と虚々実々の交渉を行ない、1989年5月のゴルバチョフ訪中により中国の3原則に沿った合意が実現するが、そのとき、鄧小平は「過去を終わらせ、未来を拓く」と日本に対すると同じようなお説教をしている。
  2.  次はカンボジア問題の和平会議に対する中国ないし銭其琛の貢献についてである。ここでも中国は1988年に4原則なるものを示す。(1)ベトナム軍の早期撤退、(2)撤退後にシアヌーク殿下を首班とする4派の連合政権を樹立する、(3)その後で自由選挙を実施する、(4)これらの過程を国際的に監視する、という4項目である。パリ和平閣僚会議は89年7月31日に開催されたが、天安門事件直後であったにもかかわらず、ベーカー長官が銭其琛との会談を求め、秘密裏に打ち合わせをしている。それ以後、90年9月に中国はベトナムのグエン・バン・リン党書記長、ド・ムオイ首相などを北京に招いて協議し、91年7月に北京で開かれたカンボジア最高国民評議会の作業部会で副議長問題の解決に貢献すると同時に、ベトナムとの国交正常化を進めた。こうして和平合意への条件を整え、10月にパリ和平合意の達成にこぎつけたのである。その合意には中国の上記四つの原則が貫かれている。パリ会議の共同議長はフランスとインドネシアであったが、中国は国連安保理常任理事国として大国外交を展開した。
     ちなみに我が国内では日本もカンボジア問題の解決に一役演じたことになっているが、この本には全く出てこない。
  3.  90年8月に勃発した湾岸戦争も中国に大国外交の機会を与えた。多くのアラブ諸国が中国に特使を派遣した。銭其琛も党中央の命を受けて、エジプト、サウジ、ヨルダンとイラクを歴訪した。このときもベーカー長官が会談を求めてきて、天安門事件後の制裁実施中であったにもかかわらず、11月6日にカイロ空港で話し合った。事実、これが天安門事件後4度目の米中外相会談になったという。銭其琛は湾岸危機の中でバグダッドを訪問した唯一の安保理事会常任理事国の外相であったが、サダム・フセインに極めて厳しい警告を発している。ベーカー長官は11月末の安保理閣僚会議の後銭其琛のワシントンへの公式訪問を招請し、これが「米中間のハイレベルの相互訪問再開へのよいスタートになる」と誘惑して、安保理決議に反対しないことを要求してきた。党中央は棄権投票をすることを決定したが、ベーカーはブッシュ大統領との会見を餌に賛成投票するように働きかけてきた。銭其琛はそれを拒否するとともに、スコウクロフトに根回ししてブッシュとの会見を実現した。
     ベーカー得意の取引は完全に見破られていた。
  4.  次は1989年2月の昭和天皇の大葬の礼の際に行われた弔問外交である。その所産はインドネシアとの国交正常化交渉の開始である。その後90年7月にアラタス外相が北京を訪問して、8月8日に外交関係を正常化するというコミュニケを発表した。その日、ジャカルタには李鵬総理が訪問していて、私は首席随員の徐敦信部長助理との再会を想起した。
     なお、大葬の礼に先立って、東京では味村法制局長官が「国内法としても、国際法に照らしても、昭和天皇に戦争責任はない」と国会答弁したが、党中央は「事実上裕仁天皇は中国侵略の元凶であった」として、外交部長の派遣を決定したと書いてある。
  5.  中国のソウルにおけるAPEC会合への参加、ソウル・アジア大会への参加、韓国における連絡事務所の開設、国連に対する南北同時加盟、韓国との国交樹立という過程での銭其琛の活躍ぶりの記述も注目に価する。南北同時加盟に反対した北朝鮮に対し、韓国が先に加盟してしまうとその後で北朝鮮が加盟するのは困難になると警告したら、金日成が「国連問題で中国を困らせるようなことはしない」と譲歩したのは興味深い。韓国との国交正常化に当たっては、中国は大変な気の使いようで、最後は銭其琛が金日成に直接説明したのだが、「われわれは中国が独立、自主、平等に自らの外交政策を決定したことを理解する」と答えたという。しかし、その後の北朝鮮の反発振りについては触れていない。
  6.  天安門事件直後の、スコウクロフト大統領補佐官(国家安全保障担当)の隠密裏の訪中は今や広く知れ渡っているが、鄧小平の「問題は米国側にある」と切り出し、「鈴を外すのは鈴をつけた人でなければならない」と言い放った高飛車な応対は印象的である。スコウクロフトが年末に再度訪中した後、米中関係は鄧小平がキッシンジャーに示した包括的解決案の方向で改善しそうになっていたが、ルーマニアのチャウセスク政権崩壊の後に米側に熱意がなくなってしまったという。しかし、前述のような湾岸戦争をめぐる米国の対中接近があり、91年11月にベーカー国務長官の訪米が行われて米中和解が実現した。
     それに加えて、中国は日本に働きかけて、天皇訪中を実現し、「これにより、中日関係は新たな水準に押し上げられた。同時に日本の天皇がこの時期に訪中したことは、西側の対中制裁を打破する上で積極的な作用を発揮した」としている。私の記憶では、銭其琛は国内の報道機関に対し、天皇訪中が日本国内の右翼に抑制的効果を期待していたとも述べていた。
  7. ソ連がロシアに移行する段階での、中国の対ロシア外交もしたたか振りを見せる。92年11月に銭其琛がロシアを訪問した際の記者会見で、「今後われわれとロシアやCIS諸国との関係の原則は、同盟関係でもなく、敵対関係でもない。これこそが正常な国家関係である」といっているのは印象深い。中ロ関係は92年12月のエルツイン訪中により、新しい関係の基礎が築かれたが、94年9月の江沢民訪ロのときに「新たなタイプの建設的パートナーシップ」という言葉が使われ、さらに96年4月のエリツイン訪中のときに「戦略的協力パートナー」に格上げされた。ロシアは銭其琛の古巣であり、この間彼はフルにその力を発揮した。
  8.  この本の圧巻は銭其琛のアフリカ外交である。中国は一貫してアフリカを重視し、アフリカ諸国を支援している。それは反植民地主義という共通の大義に基づくと説明しているが、私見では東西対立の中にあって、国連における多数派工作としてアフリカ諸国の支持が不可欠であったからであると思う。事実、1971年の中国の国連代表権回復にあたってアフリカ諸国は中国を支持したし、天安門事件後の制裁にも反対して中国を擁護した。銭其琛は外相に就任以来毎年正月にアフリカ諸国を訪問しており、その伝統は今日も続いている。日本がそれだけのアフリカ諸国の長年の支持を有する中国と相談せずに国連安保理常任理事国入りを多数決で通せると考えたのはいかなる根拠によるものかと不思議に思う。
     その中国が苦労したのが南アとの国交樹立で、マンデラは台湾との国交断絶に踏み切れずに二重承認を模索したが、銭其琛は辛抱強く彼を説得した。
  9.  台湾問題についての中国の闘争は日本だけではなかった。フランスのフリゲート艦売却問題(91年)、それに続いてミラージュ戦闘機の売却問題(92年)が中国を悩ます。これにはデュマ外相のスキャンダルが絡んでいたという報道を想起させているが、中国は最終的には中仏間で準備中であった広州地下鉄工事や大亜湾原子力発電所の第二期工事、フランス産小麦の買い付けなどを取り消し、在広州仏総領事館の閉鎖などの対抗措置を採った。93年に仏の政権が交代した後、フランス側から交渉を申し入れ、94年に初めに「仏政府は今後、二度と台湾への武器売却をしない」というジュッペ外相の書簡を発出して解決した。
     他方、米国も95年の李登輝訪米で問題を起こした。中国側は要人の往来を停止し、ミサイル関連技術輸出規制と核エネルギー協力についての協議も停止、95年7月と96年3月の二度にわたる大規模なミサイル発射訓練を実施し、二度目の両岸首脳会談を延期するという対抗措置に出た。95年8月のブルネイにおけるAPEC(アジア太平洋協力会議)会合でクリストファー国務長官がクリントン大統領の江沢民宛親書を手交し、江沢民が近い将来ワシントンを訪問するよう招請すると述べた。そのときの合意に基づいて、8月にターノフ国務次官が訪中して台湾指導者の訪米の制限について話し合い、一応の了解に達した。97年江沢民が米国を公式訪問したが、このときの帰路の飛行機の中で江沢民が高揚してカラオケを歌っていたテレビの報画はいまだに忘れられない。98年6月クリントンが訪米した際、上海で「三つのノー」を発表するというサービスをした。
     幸いこの本の中では、日本の台湾問題は記されていない。日本はフランスのような強引な武器輸出をする意図はない。しかし、フランスが米国は台湾に武器を売っているではないかと差別問題を議論したのに対し、歴史的背景が違うと無視された。私も台湾に対する要人訪問に関して日本にだけ厳しすぎると反論したが、日本は台湾を植民地化したという特別な歴史的背景を忘れるなと逆襲されたことがある。台湾問題についての中国の神経質な警戒は今後も注意を要する。
  10.  最後は香港マカオの返還である。返還直前になって、英国が香港の選挙制度を直接選挙の枠を増やすように画策したことが最大の問題で、英国が植民地時代には考えもしなかったような民主化を行って、それを返還後の中国に押し付けられてはたまらないという中国側の懸念は理解できる。しかし、17回の交渉にもかかわらず、英国は最後まで妥協せずに「政治改革」を成立させてしまったので、返還前の立法評議会議員がそのまま返還後の立法評議会議員になるという「直通列車」は不可能になり、中国は「別のかまど」を作ることに決めた。懐かしい言葉であるが、中国側は全人代の規定と基本法に基づいて臨時立法会を組織して、香港返還を迎えた。英国側がこのように強硬な措置に出た背景には、「90年代初めの東欧諸国での激変とソ連邦の解体以降、英国の政権当事者らは中国情勢と発展の行方を見誤って予想した」ことがある、と銭其琛は述べている。しかし、それだけではあるまい。天安門事件が生じさせた中国の民主化に対する不信の増大があったと思う。
     ちなみに、英国も天安門事件の後(12月4日)に英中関係改善のために、密使(サッチャーの外交政策顧問クラドック)を北京に派遣していた。
以上が私の注目を引いた諸点であるが、それ以外にも読者が中国外交の特徴を知る手掛かりが豊富にちりばめられていると思う。中国外交に関心のある方にはきわめて有用な本である。


KAJIMA INSTITUTE of INTERNATIONAL PEACE